
鏡花はもとより頭でっかちの作家ではないから、当時はやっていた自然主義には組していない。おそらく「なんてくだらない議論をしているのだろう」ぐらいの認識で気にも留めていなかったと思われる。作家は作品がすべてだからと、しいて反対の意見を表明する無駄もしていない。
ただ世間的には自然主義の対極の作家とみなされていたことは確かだろうから、この取材が実現して、我々も貴重な鏡花の文学・芸術観を読むことができるのは喜ばしい。
以下、明治41年7月の雑誌「新声」に掲載された談話「予の態度」から鏡花が本心を語っている部分の幾つかを取り上げる。鏡花はこの時期、体調不良のために妻すゞとともに逗子に滞在していたが、この年1月には『草迷宮』を書き下ろし出版している。
「予の態度」抄
「芸術存在の意義がどうの、自然主義の価値がどうの、という喧しい詮索立は所詮批評家の領分で、もとより私達の嘴を容れるべき範囲ではない。」
「私は近頃の無飾とか、無技巧とかいう或一派の論者には、到底賛成が出きない。彼等は如何なる意味から言っているか解らぬが、私の考えからいうと、文字そのものが已に技巧であると思う。従ってその文学の排列布置、また技巧であらねばならぬ訳となる。譬えば浅草の観音と云うも、忍ケ岡と言うのもやはり技巧である。(以下、例示と説明有り)」
「殊にこの一派の人が推奨する、モウパッサンとか、ツルゲーネフ等を見ても(勿論私は翻訳で読むのだ)この人達の唱えるような無技巧の跡が少しもみられぬのは、どうした訳であろう。モウパッサンの「鐘の音」の如きは、最も技巧に富んだ、光彩陸離たるものと思えるはどうした訳であろう。(中略)。この人達の作品それ自体が已に技巧を以って横溢しているのはどうした訳柄か、私にはどうもこの点が呑込み兼ねる。
不思議なるは、その技巧が最も奇抜に弄されてある事だ。例えば文金の高島田に結って、お太鼓に品良く帯を結んだのが紺足袋を履いて見たり、ムクつけき脛に緋縮緬の腰巻を巻いたりした、男女如れとも見境のつかぬ人間が、臆面も無く動いているといった風、或はこれが所謂彼等の近代的というのかも知れないが、私達には聊か恐れざるを得ない。
自分から言えば、一寸した人と人との会話を書くにしても、その二者の距離から、声音までも出来るだけ書き分けて見たいと思う。一間は離れている時と、三間離れて話す時とは自からその声の高低調子も異なってくる。能うべくんば室内の会話を書くにしても、その室の外は山であるか、野原であるか、湖水であるか、また街衢であるかを、その調子如何によって明瞭に書き分けて見たいと思う。確に人は時と場所とに依って感情が改まる、従ってその調子も変わって来る、山の中での声も、町の真中での会話も同じようには書きたくない。」
「私は前に何の主義に依ろうと、その作品さえ優れていれば可いと言った。醜を書いても差支え無いと言った。しかし醜を只醜としてのみ書くのなら、それは無価値だと言いたい。醜を通して更に力あるもの何者かに触れたいというのは私の希望である。更に意味を広めて言えば現実を現実としてのみ描きたくは無い。現実を通して更に一層大きな力に到りたいのだ。成程自然主義も、然るべきものだとは思う。しかし行き処の無い霊魂の年が年中フラフラしたような、それでいて目の鋭い、腹の底の解らぬ、海鼠のような、性欲の塊のような人間ばかりが、真の近代人ではあるまい。」
「私がお化を書くことについては、諸所から大分非難があるようだ、けれどもこれには別に大した理由は無い。只私の感情だ。(中略)いつかも誰かから「君お化を出すならば、出来るだけ深山幽谷の森厳なる風物の中へのみ出すがよかろう、何も東京の真中のしかも三坪か四坪の底に出すには当たるまい」と言われた事がある。がしかし私は成るべくなら、お江戸の真中電車の鈴の聞こえる所へ出したいと思う。
要するにお化は私の感情の具体化だ。幼い折時々聞いた鞠唄などには随分残酷なものがあって、蛇だの蝮だのが来て、長者の娘をどうしたとか、いうのを今でも猶鮮明に覚えている。
殊に考えると、この調節の何とも言えぬ美しさが胸に沁みて、譬えようが無い微妙な感情が起こって来る。こんな時の感情が『草迷宮』ともなり、又その他のお化に変るのだ。別に説明するほどの理屈は無いのである。
詮ずる所、私は主義も何もあったものでは無い。芸術家の行方は理論では無い、創作だ。人をとらわれていると嘲って置きながら、自らとらわれるような事はしたくない。
重ねて言う、自然主義も好し、ロマンチックも悪くは無い、表象主義でも無論構わぬ、要は只渾然たる作を得たい事だ、完全なる作品に接したい事である。」
(完)
