鏡花の文学観は単純、結果がすべてということ

鏡花が自分の文学観を表明したものはあまり多くありません。

当時の明治文壇は自然主義が主流で、鏡花は少し古いと思われていたのかもしれません。いわゆる西洋かぶれといえるものです。

自然主義は「文学はこうあるべし」という論でしたが、鏡花は論はどうでもよく、作られた作品そのものの質がすべてという態度であり、それは終生変わりませんでした。

鏡花自身の言葉を引用します。

 芸術存在の意義がどうの、自然主義の価値がどうの、という喧ましい詮索立は所謂批評家の領分で、もとより私達の喙を容れるべき範囲では無い。従って、「予の態度」といったような確然たる区劃や、概念については従来あまり深く考えた事が無い。しかし筆を執って立つ以上、そこに何等かの標準がなければならぬ。こうと意識せずとも、暗黙の中にこういう行き方とか、こうした方針で書くという、一定した主義主張は無くとも、何等かの標準はあるつもりだ。それは私だって持っている。
その極めて言い現し難い、というのは余りに漠とした考えであるから、まあ、言って了えば日常平凡な事となって了う。要は唯凡てを書けと言うに過ぎないのである。美でも好い、醜でも差支えは無い。行雲流水、人事世相、眼に映るがまま、頭脳に浮ぶがまま、心の赴くままに只管に書け、専念に書け、書いてその奥殿に参せよという事だ。勿論私は自然主義の賛成者では無い、といって敢てローマン派の渇仰者でも無い。私は芸術の使徒である。自然主義であろうが、表象主義であろうが、乃至ロマンチックであろうが価値ある作品であれば、それで異議は無い。

(中略)

自分から言えば、一寸した人と人との会話を書くにしても、その二者の距離から、声音までも出来るだけ書き分けて見たいと思う。一間離れている時と、三間離れて話す時とは自からその声の高低調子等も異って来る。能うべくんば室内の会話を書くにしても、その室の外は山であるか、野原であるか、湖水であるか、また街衢であるかを、その調子如何によって明瞭に書き分けて見たいと思う。確に人は時と場所とに依って感情が改まる、従ってその調子も変って来る。山の中での声も、町の真中での会話も同じようには書きたくない。

(中略)

私がお化を書く事については、諸所から大分非継があるようだ、けれどもこれには別に大した理由は無い。只私の感情だ。之については在来風葉君などからも、度々助言を辱うしたのであるが、私のこの感情を止める事が出来ない。いつかも誰かから「君お化を出すならば、出来るだけ深山幽谷の森厳なる風物の中へのみ出す方がよかろう、何も東京の真中のしかも三坪か四坪の底へ出すには当るまい」と言われた事がある。がしかし私は成るべくなら、お江戸の真中電車の鈴の聞える所へ出したいと思う。
要するにお化は私の感情の具体化だ。幼ない折時々聞いた鞠唄などには随分残酷なものがあって、蛇だの蝮だのが来て、長者の娘をどうしたとか、いうのを今でも猶鮮明に覚えている。
殊に考えると、この調節のなんとも言えぬ美しさが胸に沁みて、譬えようが無い微妙な感情が起こってくる。こんな時の感情が「草迷宮」ともなり、叉その他のお化に変わるのだ。別に説明する程の理窟は無いのである。
詮ずる所、私は主義も何もあったものでは無い。芸術家の行方は理論では無い、創作だ。人をとらわれていると嘲って置きながら、自らとらわれるような事はしたくない。
重ねて言う、自然主義も好し、ロマンチックも悪くは無い、表象主義でも無論構わぬ、要は只渾然たる作を得たい事だ、完全なる作品に接したい事である。

出典:予の態度(明治41年)

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